2017年05月04日

“水緩む”なんて言わないんじゃないか

今、作詞をしていて、春がモチーフなもので「何か春を表すいい言葉ないかなー?」と思ってネットで探していたんです。
ネットで探す前に「水緩む」って言葉よく使われるよなと思っていたのですが、ネットで色々見ていると「水温む」はあっても「水緩む」なんてない。
ああ、これはきっと「水温む」を「水緩む」と間違えて憶えてしまいそれが広まってしまったというよくある話なんじゃないかと思いまして。
でも「水緩む 間違い」でググってみたけどヒットしない。なので確信は持てないんですけど。でも「水緩む」で検索しても個人のブログとかそういうのしかヒットしないのがいかにも間違いっぽい。季節の挨拶の例として掲載されているサイトをたったひとつ見つけたけど、ひとつだけっていうのは寧ろ怪しい。そこのライターが勘違いしてるだけだろうなと。
で、更に検索していくと、京菓子を紹介しているページがヒットしまして。京菓子と言えば、日本の伝統、風雅というものを甘味として表現した芸術です。その銘に間違った日本語なんか使うわけがない。本当に「水緩む」という名前の京菓子があるなら、「水緩む」も正しいという事。
・・・しかしやっぱりネットで探してみたけどそんな名前のお菓子は売ってません。で、「水温む」を探してみたら、案の定ありました。
http://www.kyoto-saryo.jp/staff/kyogashi/3%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90%E3%80%8C%E6%B0%B4%E6%B8%A9%E3%82%80%E3%80%8D.html
なにこれすごく美味しそう

れっきとした商品名ですら、「水温む」を「水緩む」と間違えてしまうくらい、「よくある間違い」だという事を証明している事例としか思えません。
少なくとも俳句の季語としては「水温む」なので、間違えて「水緩む」なんて詠んだら俳句の先生に何言われるかわかったものじゃないですね。
ただ、俳句というのは決まりごとの中での表現なので色々と口うるさい事があるのですが、そもそも詩というのはもっと自由なものの筈です。季節によって水が冷たかったり温かかったりするのは言ってしまえば「当たり前の事」です、それが普通です。そう考えると寧ろ、水が「緩む」方が何か含意が感じられて、暗喩のよう。それこそが「詩的表現」であると、言えるとは思うんですよ。暗喩こそが詩ですから。
そういう意味では水が緩んだっていいと思うし、間違いだと断じるのは狭量だとも思うのですが、しかしあまりに「水温む」という言葉に似ている為、「『水温む』を『水緩む』と間違えて憶えている恥ずかしい人」だという印象を相手に与える事は避けられないでしょうね。とりあえず私は、「水緩む」だと思っていた自分が恥ずかしいです。

さて明日は立夏。
春も今日で終わりです。この曲の完成はまた来年に持越しですかね。丁度一年前も同じことやってたので困っちゃうんですけどね。っていうかいつも同じ事を言ってる。この曲に限って言ってももう今年で何年目だったかな?(汗)
今年こそはと思って今までにないくらいやる気出してたんですけど。「明日から頑張ればいいじゃんよ」というタイプの私としては大前進だったのですが、やる気出しても結果が出ないとなるといよいよダメなんじゃないかとネガティブにもなってしまいます。まあ、もっと努力しろって話なんですけど。まだまだ限界も見てないだろうっていう。

とりあえず、次は夏の曲を頑張ります。
まあ、私は気持ちの切り替えがまた苦手なものでね。どうせ明日から始めないけど。
いや、まだまだやり残してることもたくさんあるし?
作詞作曲や演奏なんかはどうしても季節感のフィーリングを重んじている分、「立夏が過ぎても春の曲を」なんて無理ですけど、作業は他にも色々あるという事で。
posted by あららぎ at 17:34| Comment(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

トランプの飼い犬は日本から出ていけ

今週、連日のように私の頭の上をオスプレイが飛んで行った。
それもかなり低空飛行のようだった。
その瞬間と言うのは、一言で言えば恐怖でしかない。
全身が粟立つかのような恐怖。地面に押さえつけられるような圧迫感。打ち付けるような激しい動悸。

勿論、沖縄の人達がこの恐怖を味あわされてきたという事実に先ずは思いを馳せるべきだろう。
特に今まで無関心でいた奴等は頭上のあれを見上げてそれを感じるべきだ。しかし私はいつだって、思いを馳せてきた。沖縄、いや世界中で戦禍に苦しんでいる人たちに思いを馳せて生きてきたつもりだ。でも、そうは言っても、そこは私の日常ではない。現実的な体験とは掛け離れていたのもまた事実だ。例え私が行動的な人間で、現地まで実際に足を運んだとしても、それはあくまで自分の日常から飛び出す行為に過ぎず、いつだって帰るべき日常は、ここにあるのだろう。
だが、私の頭上をオスプレイが飛んで、それは私の現実になった。
脅かされたのは他でもない、私の日常だ。穏やかであるべき日常が、轟音とともに恐怖に包まれる。

何かと「他国の脅威」を唱える輩がいるけど、実際に日本人の日常生活を脅かし続けている他国なんていうのは、アメリカ合衆国だけだ。北朝鮮からミサイルが飛んでくるなんて正直現実感のない話で、今現実に頭上を飛ぶのはオスプレイなのに。
ペリーが来て以来ずっと、彼の国が我が祖国を脅かしている。

どうせそんなに報道はされてないと思う。この国のジャーナリズムは終わってるからね。いや、たとえニュースで見たって、どうせ無関心なのが大方だろう。実際にその場でこの思いを味合わされなければ、解らないだろう。その温度差をいまとても感じている。
市街地の上を飛びたいのなら、東京の上空を、同じ高度で飛べばいいのに。皇居の上だけは絶対に許さないけど。
都合の悪いものは全部辺境押し付けてのうのうと生きてきたあいつらが、その時一体何を感じるだろうか。

結局、長野なんて人口少ないからと、なめられている、侮られている。そういう事だろう。
常にマジョリティの暴力に曝される構図。
沖縄を見捨て、福島を見捨て、今度は長野か?

何かというと「売国奴」と日本人を罵るのが好きな連中がいるけど、あいつらのいう「国」っていうのは日本ではなく、アメリカ合衆国のことなんだと最近になって理解できたよ。
支配され続けているうちに感覚が麻痺し、日の丸と星条旗の見分けもつかなくなっているのか。
真の皇国臣民であるなら、この神州の空を野蛮な毛唐ごときが好き勝手に飛び交う現状を看過できる筈ないもんね。
70余年前にこの国を焦土と化した軍隊。それが今、私の頭の上を飛んでいるなんて、「自分達がこの国の真の支配者だ」と誇示しているようで、威圧的で、本当に腸がよじれるような怒りしか感じないというのに。

米軍が日本を守ってくれる。
そんな寝言みたいな事をいつまで言っているのか。
日本なんて合衆国にとって対極東の最前線基地でしかないのに。つまり、「有事の際」には日本が焦土と化しても、米国本土は安全という事。太平洋戦争で日本軍が沖縄を捨石にしたみたいに、今度は日本が捨石にされる。まあもっとも、政府もそれが解っているからこそ、ご機嫌取りに余念がないのだろうが、その姿は情けない限りだ。結局取る物だけ取られて、いざとなったら逃げられるだけなんじゃないのか。
なにかと靖国詣でが大好きな政治家たちは、いったい英霊を前にして何をしてきているのだろう。土下座以外にすべきことなどないだろう。私はこの国の現状を見るにつけ、この国の為に死んでいった方々の嘆きが聞こえてくるようだよ。あの時から、今もなお、我が日本は米軍に蹂躙され続けているではないか。

そしてこの国には、中国人と見分けのつかない拝金主義者と、アメリカの飼い犬どもが、跋扈している。
日本人は滅びてしまったのか。少なくともここにはいるけど、同胞の顔が見えない。
「日本人はこんなにすごい」とか言って御満悦のあいつらは、本当に日本人なのか。謙虚さこそが日本人の美徳ではなかったのか。
勿論私は、日本の文化に誇りを持っている。
本当に自国の文化を尊重出来る人間というのは、他国の文化も同様に尊重できるのだという事を肝に銘じるべきだ。「日本の文化は素晴らしい」という外国人がいたらその事こそをリスペクトすべきなのであって、自慢げな態度を取るのは実に恥ずかしい事。
そもそも日本の芸術文化、殊にサブカルチャーが優れているのを、日本人だというだけで自分の事のように自慢するのは如何なものなのか。それはあくまでほんの一握りのクリエイターの方々の功績であって、貴方達のお陰でではないから。
日本人がノーベル賞を受賞してもそれはあくまでその研究者個人が優秀だというだけで、貴方達は何一つ寄与してないだろうと、そういうニュースで湧いているのを目の当たりにするたび思わざるを得ない。
寧ろ、この国で何かを成し遂げようとすれば常に逆境が待ち構えている。出る杭は打たれる文化。さんざん足を引っ張っておいて、成功した途端に掌を返す。
posted by あららぎ at 20:29| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

人類を二種類に分けるなら…

アセクシャル、そしてXジェンダー
2016年に私が新たに知った言葉の中で特筆すべきなのはこの二つでしょう。矢張り、他人事みたいなワードよりも、「あ、それって、私の事か。」という方が、という意味で。

セクシャリティ及びジェンダーという、私にとってもナーバスで、でもそれでいて何か遠い世界の話みたいな分野のワードを今更のように二つも知ったというのは、まあ確かに印象的な出来事ではありました。

Xジェンダーについてはほんと覚えたてで、私自身まだ詳しく理解が及んでいないので、まあまた機会でもあれば話をする事もあるかもしれない、という程度に今は留めておきます。

一方のアセクシャルですが。
まあ確かに恋愛経験の一切ない私にとってはなんとも腑に落ちてしまう定義ではありましたね。あ、私それだわ、っていう。
そもそも私は、「恋愛感情」というものが存在する事をいっさい信じていません。少女漫画が大好きですけど、あくまでフィクションですから。現実は違うという事にはとっくに気付いてる。「ファンタジーが大好きだけど、魔法とか妖精とか現実には全然信じてない」のと同じ。
「恋愛なんて都市伝説」っていうのはほんと、思わず膝を打っちゃいましたね。ささみさん11話の時の話ですが。もっとも世間一般的にはこういうのって「自分がモテない現実から目を逸らす為」の方便なのかなという気もしますが。或いはただの自虐ネタ?
ただ私に言わせてみれば、モテないのがきっかけでも「恋愛などという概念は空想の産物である」という真理に辿り着けたので良かったですね、という事になります。因みにモテてもこの真理には辿り着けます。意味の解らない一方的な感情を向けられても面倒なだけですからね。もちろん私の場合は後者です(笑)。

まあそんな感じで「恋愛」という概念をばっさり否定してきた私にしてみれば「アセクシャル」という概念の存在を知ったところで特に何も変わらない訳です。誰かに恋をした事がない、そういう事がそもそも全然理解できない自分は、おかしいのではないか、なんて悩んだ経験はないです。だから「それは貴方がアセクシャルだからです、何もおかしい事ではありません」とか言われて救われた気持ちになるみたいな事は今更ないんです。
私は、自我に目覚めた時点で、つまり私は私で他人は他人なんだと気がついた時点で、「私は他の誰とも違う」という事が解っていました。なんか、全然当たり前の事しか言ってない感じなんだけど、でもその当たり前の事が理解されないからこそ、同調圧力みたいな、みんな同じじゃなきゃいけないっていう発想が生まれてくる訳ですよね。

そもそも私は、たとえ人類の73億人に否定されても、自分の方が正しいと言えるだけの自信はあります。全人類で私こそが誰よりも一番、真理に近づけるのはないかとすら思っているし、だから正直に言うとガウタマ・シッダールタやジーザス・クライストがなんだというのか?くらいに思ってます。まして、今地球上に生息してるらしいたかだか73億の人間ごときがなんだというのか。そのうちの多くが、さっきの二人にムハンマドを加えたたった三人の言った事をばかみたいに信じ込んで互いに争うだけの存在に過ぎない。

驕りだとは思いません。別に私が人類史上最高の頭脳だとかいうつもりは微塵もないし。客観的に評価すれば(されれば)私の知能も、まあまあそこそこ?程度でしょうね。
それでも何故自分の考えに自信を持てるのかと言えば、それは「自分で考えている」からです。釈迦なんかもしかしたら本当に優れた人物だったかも知れないけど、「だから釈迦の言った事が宇宙の真理だ」なんて言ってしまえば、そこで思考停止ですよね。真理を追い求めない人間が真理に辿り着ける訳がない。
世の中で「自分は正しい」みたいな顔をした人の多くが結局「偉い人がそう言っていたから」「みんなそう言ってるから」程度の根拠しか持っていません。ちゃんと自分の頭で考えてない。最悪、人の考えを鵜呑みにしているだけなのに自分で考え出したと錯覚してしまう。それで正しいとか有り得ません。
逆に、「自分は頭悪いし、難しい事はよく解らない」とか言ってそもそも考えようともしない人も多いですよね。私はそういうのが一番、嫌い。考えるという事を怠っている言い訳にしか聞こえません。

自分という存在は世界に一人だけ。そんな唯一無二の存在である自分を、なんでもっと信じないのか。信じてあげられないのか。

世界には二種類の人間しかいない。私と、私以外の。

これが真理です。
世の中には何でも白黒はっきり分けたがる稚拙な人が多いですけど、実際には、大抵の事はグレーです。白と黒の間のグラデーションの中で分布しているに過ぎません。二つにきっちり分けようとすると、どうしてもボーダーライン上に引っ掛かる人が出てきてしまう。勿論、男性と女性に分けようとしてもね。
でも、私と私以外の間には中間がない。「私は半分は私だけど、半分は他人です」なんて人は存在しないし、現実にそれを主張する人がいたら残念ですけど精神がかなり危険な状態です。
そんな絶対的な「私」が地球上に73億いれば、二種類どころか73億種類じゃないか、とも思われるかもしれないけど、「私」にとって他の誰でもない唯一の「私」であると認知できるのはこの世で私一人であって、他人では出来ないんです。「他人もまた一個一個の『私』である」というのは便宜上の仮定に過ぎません。
仮に、AさんとBさんがいたとして、「AさんとBさんは同一人物ではない」と証明する事は出来るのでしょうか。究極的に言えば、それは出来ないと思います。法的に言えば、戸籍を調べるなり、証明する方法はありますが、そもそも法も戸籍も人間が作り出した便宜的なシステムに過ぎません。もしかするとこの世には肉体を二つ乗りこなせる人もいるかも知れない、その場合「見た目の上では二人いるだけ」の同一人物という事になります。残念ながら私は肉体をひとつしか所有していないのですが(それが本当に私の所有物なのかは別として)、自分がそうだからといって、他人もまた同様であるとは言い切れないのです。
「私」が世界で、この宇宙で、どれだけ絶対的な存在であるかという事を、みんなもっと認識していいと思う。そして「他人」がいかに曖昧で不確かな存在であるか。
それは即ち、絶対的な孤独という事なので、淋しがりやの人達はどうしてもそこを受け入れたがらないけど。
でも、「私もあなたと同じだ」という発想こそが、異質さの排除へとつながる。「同じだ」というのは錯覚に過ぎないのに。絶対的な孤独から逃れたいだけの、「弱さ」に過ぎないと言う事はせめて自覚して欲しい。
相手がロボットですら、姿かたちを人間を真似れば、それを自分達の仲間と感じてしまう。どうやら人間ってそういうふうに出来ているっぽいけど、それは錯覚だという事を大抵の人が理解できると思う。同じ人間同士でも同様で、自分と似ているほど仲間意識が芽生えるみたいで、身体的特徴の一致という点では、異民族よりは同民族、異性よりは同性、となってしまうのも理屈としては通っていて差別が生まれてくる訳だけど、人型ロボットの例を考えればそれも所詮、錯覚に過ぎない。

そう考えていけば、肌の色とか、性別だとかで、人類を分けることがいかに無意味であるか。
誰もが「自分だけが他と違う」のだと気がつけば、マイノリティーの排除とか起こらないのにね。
本来であれば、ホモセクシャルだとか、アセクシャルだとか、そんなふうに分類する必要がそもそもない筈だし、自分達でそうやって定義づけしなければいけないというのはもしかしたら悲劇なのかも知れない。
posted by あららぎ at 18:17| Comment(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月03日

黄鐘調 拾翠楽



すごく好きな曲です。『陰陽師』のCDに収録されていて(但しフルではない)、もうかれこれ15年くらい?聴いている筈なんだけど、この曲の魅力に気がついたのはわりと最近。他にも『蘇合香』という良い曲が入っていて、それも以前はそんなに気にしてなかったので、ほんと不思議。
それからなんとしても拾翠楽を演奏したいと思って練習してなんとかまあまあ形にはなったなという感じです。
拾翠楽はほんとは琵琶がとてもいい感じなので、龍笛と篳篥だけだとどうも物足りないです。弾けるものなら琵琶も弾きたいけど、100万とかするからね(汗)。
posted by あららぎ at 21:18| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

アニメ主題歌の話題。

『Rewrite』っていうアニメを観ていたら、主題歌がNanosizeMirでびっくりしました。
いや、いつかこんな日が来るとは思ってたのでそういう意味では驚きはないです。「やなぎなぎさんの次はきっと・・・」みたいに思ってましたから、某王国出身者で。塚越さんのサウンドのクオリティだったら何の不思議もない。寧ろ、知らないでいた、気がつかないでいたからの驚き。初回放送で気付けよ、っていう(汗)。
どうやらゲームの主題歌だったのをアニメでも、っていう事らしいですね。ゲームの事は全然わからないので。「ゲームにも主題歌ってあるんだ」っていうレベルで。
一応、番組改編期にはアニメの新番組は一通りチェックしています。ただ、一番重視するのは監督が誰か。次にキャラデザ&総作監と制作会社。次に音楽、といった感じ。ここでいう音楽っていうのは劇伴の事であって、主題歌はスルーしがちなのも事実です。分島花音さんだけは逃さないようにしないとと思ってますが。
Rewriteについては、そんなに観たい作品でもなかったのですが、『キズナイーバー』の後番組だった事(BS11で)、更にこの枠では『デュラララ!!×2』もずっと観ていて、なんか土曜夜23時半はアニメをみる習慣ができてしまっていて笑。それと監督が『きんいろモザイク』の天衡さんというのも注目ポイントではあったので、「とりあえず観てみるか」程度のいい加減な気持ちで観てました。次回はきちんとOPとEDには集中してみたいと思いますが、シリーズとして最後まで観てみようという気はあまりありません。リトバスRefrainはかなり好きでしたけどね。今作もリトバスっぽさを感じる分、かえって比べてしまうというか。あの本気のJ.C.STAFFと飯塚晴子さんの作画が素晴らしかっただけに。

ここ一年くらいのアニメ主題歌で気になっていると言えば、『すべてがFになる』のED。私は元々、変拍子を聴くと血沸き肉踊っちゃうんですけど、あの曲は基本4拍子で、突如3拍子が混ざって来ると急に民族音楽の香りが漂い始めて好きです。方向性としては結構、NanosizeMirと近しいものがあるんじゃないかと内心思ったりもしていて。私にとっての民族音楽っていうのはアジア音楽なので、基本は四拍子です。3拍子だと中近東〜東欧辺りのテイストになりますね。やっぱり遊牧民の音楽という感じ。

posted by あららぎ at 14:31| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

「自主憲法」

「今の憲法はGHQに押し付けられたものだから、日本国民自らの手で憲法を制定しよう。」
みたいな話。
いったい、誰による誰のための憲法を制定したいのか。とても本気で「日本国民による日本国民のための憲法」だと考えているとは思えない。そもそも日本人のうちのいったいどれくらいの人が「自主憲法」を望んでいるというのか。一部の人が言っているだけならその時点で「自主憲法」などと欺瞞だし独善。今のままなら「一部の人による一部の人のための憲法」しか出来ないでしょうね。
多くの国民は「憲法の事なんてよく知らないし、難しい話はわからない」と思ってるのが現実でしょう。「改正した方がいいのかな?」なんてなんとなく思ったとしたって、「誰か偉い人が考えてくれるだろう」と思ってる。「偉い人」が自分達の都合で勝手に決めたものを果たして「自主憲法」と呼ぶのか。いや、それこそ「押し付けられた憲法」と間違いなく言っていいだろう。

憲法の問題に限らず、制度や仕組みを変えるという事はリスクを伴う。それまで上手くいっていた事が上手くいかなくなる、という弊害は必ず出てくるもの。得るものと失うものをきちんと勘案しなければいけない。

少なくとも私は、「今の憲法が悪いから自分はこんなにひどい目に遭った」という人の話を聞いた事がない。今までこれでそこそこ上手くやってきたものを何故そんなに変えたがるのかは理解し難い。


「今の憲法はGHQに押し付けられたものだから、日本国民自らの手で憲法を制定しよう。」
この“GHQに押し付けられた”という部分に対する疑問を除いて考えれば、まっとうな言い分に聞こえる。逆に言えば、前提から間違ってるという事だけど。前提が間違っていれば「だったらこうしましょう」という部分が幾ら崇高でも意味がない。
posted by あららぎ at 20:45| Comment(0) | 思想と哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月12日

政治不信とか寝言

今回の選挙に関してあれこれと考えていたら、今までまったく考えもしなかった事をちょっと思いついちゃったんですよね。
それは、「1票には2票分の価値がある」という事。
あくまで「考え方によっては、」という話で、1票は1票ですけど。
「1票のポイントは2点」と言い換えてもいいと思う。

どういう事なのか、架空の話として説明していきます。
解り易いように仮に「12人で投票(1人1票)し代表を一人決める」とします。立候補者はAさんとBさんの二人。
投票前にこっそり全員に誰に投票するか訊いて回ったところ、Aさんに投票=5人、Bさんに投票=4人、棄権=3人、という結果でした。
さてBさんがこの情勢を逆転して当選するにはどうしたらいいか。差は1票なので、もう1票で同点、逆転するには2票が必要です。
先ずは棄権する意向の人を説得してBさんに投票してもらう、というのは自然な発想ですが、その場合2人は説得に成功しなければ逆転できませんね。
一方、Aさんに投票する意向の人を翻意させてBさんに投票してもらえば、この場合は1人さえ説得できれば逆転できます。Aさんの得票が1減って、Bさんの得票が1増えるので。
選挙前の情勢だとAさん5票、Bさん4票でAさんが本来当選していたところを、実際の投票ではAさん4票、Bさん5票でBさん当選となります。Bさんは4−5から5−4に逆転した事になります。

逆転するには2票必要だったにも関わらず、1人の1票の力でその差を逆転した、という事が言えますよね。
これこそが、「1票には2票分の価値がある」という理屈です。

では、棄権する意向だった人の1票には結局1票分の価値しかないじゃないか、と思われるかもしれません。
「だから棄権というのは票の価値を貶める行為なんだ」などという発想も出てきそうですが、それは論理的ではありません。
1票の投票に2票分の価値があるとした場合、棄権という行為には「両者に1票ずつ投票した」という解釈を当てはめる事が出来ます。
先程の例で、今度は仮に「1人2票で投票(但し2票使い切らないといけない)」としたとしましょう。Aさんに当選して欲しい人は当然Aさんに2票入れますし、Bさんにも同様です。Aさんに5人、Bさんに4人投票すれば、10票対8票でAさんが当選。Aさんに4人、Bさんに5人なら、10−8でBさんが当選となりますよね。残りの3人が棄権すればこの結果は勿論変わりませんが、棄権ではなく「両者に1票ずつ投票した」場合も、それぞれに1票ずつ加算される訳で、11−9、12−10、13−11となり、得票差が変わることは有り得ません。
棄権をする事と、両者に等しく投票する事との間に、実質的な差はないのです。
ただ、(この例え話で)3人が棄権すれば投票率は75%、全員投票すれば勿論100%となります。しかしこれは、「投票率が8割を超えないと無効」などという規定でもない限り、選挙結果に影響を与えません。投票率が高い方が当選者は「信任された」と胸を張ることは出来ますが、法的に規定のない事柄にはあくまで法的な効力もないのです。
あとは、「棄権」というとどうしてもネガティブがイメージがあります。投票さえすれば「きちんとやるべき事をやった」と「有権者」は胸を張ることが出来ますね。しかしそれも所詮、イメージの話でしかありません。選挙結果として一切反映されない以上、「ちゃんと投票しましたよ」というのは自己満足にしかならないのでしょう。
現実の選挙でもまったく同じだと思います。棄権と、白票を投票する事の差なんてそんなものです。


そもそも私がこの考えに辿り着いたきっかけが「白票運動」です。今このワードで検索したらなにやら組織的陰謀めいた話がヒットしてきましたが(それ自体は否定もしませんが)、「白票を投じよう」という主張自体は以前からありました。もう10年以上前になるかな?TVで選挙の特集みたいなのを観ていて、たしか一般の有権者が何人か出演して意見を言っていた中、どこぞのIT企業の社長だったと思うんだけど自分は白票を投じるのだとドヤ顔で言っており、「こいつアホだな」と思いながら観ていた事だけはよく覚えています。

「白票を投票する」という行為に対する批判はこの際省きます。検索すれば幾らでも出てくるし、そこに付け加えて言いたい事もないので。
前述の通り、白票を投票するのも、棄権するのも結果は同じです。
その上で、「棄権」という行動が、選挙において何らかの意思表示となり得るか、「民意」として選挙結果に投影され得るか、という点をよく考えてみて欲しい。

前述の「白票運動」に対する私の結論は、「それは意思表示になりえない」です。
そして、「投票しない事が意思表示なり得るか」という問題に対する私が辿り着いた解答は「なり得る」です。
そう言うと、「白票も棄権も同じ」という発言と矛盾する、と思われてしまいそうですが、そうではありません。問題なのは、「目的がきちんと結果に反映されうるか」という点です。「白票の投票を」というのには、簡単に言えば“「政治不信」の意思表示”という意図が込められているらしいのですが、残念ながら選挙結果にそれは反映されません。「無効票が多いのは政治不信の表れ」というのは憶測でしか言えない事です。
寧ろ与党に有利に働くというのが大方の見方です。

・・・与党に有利に働く。
それってつまり、選挙結果に影響を与えうる、という事になりませんか?
そうなんですよ、私が導き出した結論。
「寧ろ与党を消極的に支持している有権者は、棄権したほうがいい」
これが正解だと思う。
「消極的に」というのがみそです。
積極的に支持しているなら勿論投票に是が非でも行きますよね。だから敢えて投票を呼びかける必要はない。本音を言えば家でおとなしくしていて欲しいくらい。
それこそ、「投票率が低い方が自民党に有利」と言われている所以です。絶対自民党に入れるという層が一定程度存在しているので、態度未定の人が投票しなければまず自民党が勝利できるという理屈ですね。

世論調査によれば、与野党が伯仲する事を半数の人々が望んでいます。それに対し、与党の獲得議席が2/3を超える数字が予想されています。このギャップはなんでしょう。与党がそこまで圧勝する事を望んでいる人は決して多くない筈なのに。
原因は色々あるでしょう。選挙制度自身に問題があるのは間違いないと思っています。小選挙区では40%台の得票率で議席の6割以上を獲得する、という事が実際に起こっている訳で。これが民意を反映した結果と言えるでしょうか。こんな誤った選挙制度は改めるべき、と考えています(中選挙区か完全比例かのどちらかが望ましいだろう)が、それは容易ではないだろうし実現したとしてもいつになるかわかりません。少なくとも目前の選挙に関し、選挙制度の不備を嘆いても何も始まりません。
今すぐこのギャップを埋めるにはどうしたらよいのか。
与党を消極的に支持している人たち、「どちらかと言えば」という程度で与党(の候補)に投票しようとしている人たちが、せめて棄権すれば、与党が勝ちすぎるのを抑える事が可能です。それによって少しでも与野党の勢力差が縮まれば、それはより民意が反映された選挙結果に近づくと言えるのではないでしょうか。
所詮、内閣を支持する理由が「他より良さそうだから」程度なら、敢えてこれ以上与党に投票する必要性があるでしょうか。そういう意味において、「投票を棄権する」という一見後ろ向きな行為が、実は選挙結果に対して建設的に寄与しうるのだという事を、有権者の皆さんに考えて欲しいなと思います。

野党支持者が都合のいい事を言っている、という事ではないですよ。自分の都合で言えば「野党に投票して」しか有り得ないんで。まあ、個人的な話ではなく、この国の未来を考えれば本当はそれが賢明にして正解なんだけど。
ただ、それが間違いであっても与党を支持してしまっている人たちが、自分の意に反した投票行動をするのはさすがに抵抗があるだろうし。本当はそれでも野党に入れれば、「与野党伯仲の国会勢力図」が実現する筈なんだけど、それでも野党に入れたくないなら、せめて棄権すればいい、という話。
最初の「1票のポイントは2点」という話で言えば、投票すれば2点だけど、棄権しても1点。2点入れたいほどの支持じゃないなら、ここは1点で、ということ。

私自身、この事に気がつくつい先日まで、「国民主権なのだから有権者は主権の行使に投票にいくべき」とかなり強く思っていました。この記事のタイトルが「政治不信とか寝言」なのも、そもそもは政治不信とか言ってる奴等に「投票に行け」と言いたくて書き始めたわけで。
歴史上、今では当たり前とも思えるこの参政権を廻って、大変な苦労、尽力があった事を思えば、「投票に行かない」なんてとんでもないと思ってました。確かにそれはあるんだけど、しかし冷静に考えてみれば、多少感情論的かなとも思えてきて。ただ漠然と投票に行って、国民としてすべき事をしたのだと胸を張られてもそれは違うんじゃないかと思いますし。ろくに考えもせず、誰かに促されるまま投票したり、あるいは「勝ち馬に乗る」なんていうろくでもない動機まである始末では。
意図的に棄権することで選挙結果を左右する可能性がある以上、それもひとつの手段として正当性があると思います。ただ闇雲に投票すれば良いってものでもない。

最初の例え話で言えば、Aさんに投票するつもりだった1人がもし棄権することにすれば、AさんとBさんの得票は並びますよね。「あえて引き分けを狙って棄権」もあり得るわけです。
例え話は所詮例え話であって、現実には一人の判断が結果を左右する可能性は限りなく低いですが、しかしそれを言い始めてしまえば、「どうせ自分一人の1票じゃ何も変わらないし」となってしまいます。

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posted by あららぎ at 20:44| Comment(0) | 思想と哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月03日

ウマ シ クニ

そもそも日本古来よりの信仰とはなんだったでしょうか。

我が国における、八百万の神々とは、アニミズム、自然崇拝から来るものだった筈。万物に神が宿るという。
時に牙を剥き猛威を振るう大自然に対し、人々は畏怖、畏敬の念を抱きつつも、一方で自然からもたらされる恵みに感謝する。時には折り合いをつけながらも、自然と共存してきた筈。

それが今、失われている。

3.11に、自然の猛威を目の当たりにしたにも関わらず。
たかだか人類の文明などで、自然をコントロールするなんて、驕り、増長も甚だしいと、遅きに失したとはいえやっと気がついたのではないか、と期待したのも束の間。
「だったらもっと巨大な防波堤を作ろう」などという発想にいたる始末。

放射能で海を汚しながら、自分達の健康被害の心配しかしない。つまり自分達の口に入る魚が汚染されているかいないかのみを案じて、海が育む多様な生命に対して何の思いも馳せられない。
そして今度は美しい珊瑚礁の海を埋め立てようというのでしょうか。

美しい海を守る?

空々しい。
更にわが郷土が誇る山脈に穴を開けてリニア新幹線を走らせようなどと言い出す始末。
日本人は古来より山そのものを神として崇めてきたというのに。
リニア新幹線などと浮かれてばかりで、足元をまったく見つめられない。

自分達は自然に生かされているという事がわからないのでしょうか。
普段何を食べて生きていると思っているのでしょうか。
大地と海の恵みに対して感謝もしない。

自然を崇め、畏れ、敬う。自然が我々にもたらしてくれるものに感謝して生きる。
それこそが古来より連綿と続いてきた日本の伝統です。
この美しい大地と海を汚し、破壊し、それでいて何が保守だというのでしょうか。
自然に対する畏敬の念も持たない輩が、我が国古来よりの信仰を失った者達が、神社へ詣でて何を祈り願うと言うのか。


日本人などと称している貴方達は、本当は一体どこから来たんですか?



(美し国、初春を寿ぐ。)
posted by あららぎ at 21:12| Comment(0) | 思想と哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月22日

間違ってる。

間違った判断しかできない人々。
「私が諭すべきなのか?」しかしその瞬間、「諭す」という汚い行為を(その思い上がりを)、恥じなければいけない。

正しい人が間違った人々を導くべきだと思うか?
否。誰かを導けるのだというその傲慢さが既に正しくない。

「正しい」と言っている時点で傲慢か?
それを傲慢と言い放つのは稚拙。
少なくとも私は自分の「正しさ」を疑っている。だから私は疑わない人よりは正しいと言える。
posted by あららぎ at 21:10| Comment(0) | 思想と哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月12日

犠牲

誰かに犠牲を押し付ける事でしか成り立たないシステム、社会なんてものを、私が容認する事なんて未来永劫有り得ないんだよ。

他者を犠牲にしているという事実に鈍感な人間も、一方で「犠牲」を肯定する人間もまた、まったく許容できない。
posted by あららぎ at 21:07| Comment(0) | 思想と哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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